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Statement

時代を遡ると、人が自らの想像力を頼りに
無から何かを創り出す行為は社会と切実に関わるものでした。

アートとは絵画や彫刻といった芸術作品そのものを指すのではなく、
それら芸術品が各時代においてどのような役割を担うか、という概念です。
歴史に残る作品は芸術家本人の思考を超えて、時代を反映するものです。

一方、現代アートは価格が高騰し、一般社会とは接点のないものになっています。

その中にあって、まちおこしの起爆剤としてフランスで
現代アートを用いた芸術祭が行われ成功を収めたことを皮切りに、
日本でも、空家等の有効、地域活性化のために芸術祭が行われる流れにあります。
地方創生のみならず、現代における様々な課題をアートを通して解決していきます。

column

  •   中国、杭州に滞在する現代美術家、山本愛子が全6回に渡り、旬なアジアのアートコラムをお届けします。     香港に着いた。私がなぜここに来たかといえば「アジア最大級のアートバーゼル」というものが一体どんなものなのか、とりあえず行ってみようと思い立っただけなのだ。滞在中の杭州から飛行機でたった2時間、映画を一本見終わる前に着いてしまった。空港から直接会場に来てオープンまであと数分。急いできたので景色もよく見てない。というか香港のこと何も知らない、調べてない。着いてみて身を以て知る。根無し草の私は、自分で動いて見て聞いて感じることで言葉に血を通わす。「行かなくても美手帖とかSNSで雰囲気わかるし、お金持ちが集うような場所に作家自身がわざわざ行く必要がない。」昨日の私に言えるこの冷えた言葉を捨てるべく、水分をたっぷり含んだ粘土のように何も固まっていない状態のうちに色々と経験しよう!わくわく!そんなことを考えていたらバーゼルは澄まし顔でオープン。マップを見るとすごい量。242ブース!1ブース2分でも日が暮れる。     流れる風景のように膨大な量の作品を見ていると、私は作る側であるから作品の気持ちを考える。もし私の作品がこの大海原に一つ浮かんでいたら、と。人々は軽やかに回遊する。珍しいクラゲに目を奪われ、キラッと光る小魚にあら可愛いとよそ見して、遠くそびえ立つ山々にあちらに行こうと舵を切り、注意散漫な脇見運転をしながら、ある夫人はシャンパンを片手に風景をお楽しみのご様子だ。何というか、そんなことは予想してここに来たわけだし、と私もめげずにボロ船を漕ぐ。目ではなく心を奪ってくれるものは無いかと、そんな期待でパドルを手にする気持ちだけはトレジャーハンター。私の心を奪う何かに出会いたい。運命を感じる作品はないでしょうか。     不思議だな。こんなにたくさんの作品に囲まれているのに、なぜ見つからないんだろう。まるで行き交う渋谷スクランブルのど真ん中、恋人に出会えずひとり空を見上げて途方にくれてしまっているような。皆の目を奪う作品はたくさんある。インパクトがあったり、有名な作品だったり。しかし心を奪う作品はきっと人それぞれ違う。そしてそれはなかなか見つからない。目を奪う作品とは「今どこにいる?」と聞かれこの会場で待ち合わせにできるものでもある。「村上隆のおっきい花があるところにいるよ~」「なんか一番ネオンがすごいブースのとこ」という感じに。共通言語になりやすい作品は話題に乗りやすい。そして売れやすい。かどうは売り側じゃ無いので分からない。     いくつかの心惹かれるものに出会うことはできた。それらには共通点があった。私が心惹かれた作品の共通点、脆いもの。古紙、布きれ、いわゆる「襤褸」や、糸や針金、か細く自立するもの。素材に限らず、何やら細密に懸命に何かを記しているけれど、それが解読不明か意味深長なもの。謎を謎のままに肯定するもの。どこかの民族刺繍やらがオブジェにまとわりガラクタのような振る舞いだったり、メカニックな技術を駆使しているにも関わらず意味不明な働きをしていたり。私はそうした美しい暗号に出会った時、自分の心が喜ぶのを感じた。一見脆い暗号の奥に燃えたぎる強さ、作家自身の感性がじわじわと伝わってくる。待ち合わせ場所にはされない、どこかとりのこされた雰囲気のものたち。私はそんな素朴極まりなくオーラあるもの達に惹かれたのだった。     睨みが静かに光る。夜の茂みに一瞬ギラリと野生の眼。この野生は、注目を浴びてやろうという野心とは別のベクトルで呼び鈴を鳴らす。静かな鈴の音は、確かな警告でもある。作者の意図では無いとしても、私はこの作品たちを(正確に言えば作品の「部分」たちを)鏡として、私自身の居場所を聴くことができる。これは私が今回アートバーゼルに来て最も良かったと思える収穫の一つだ。自分は何が好きなのか、何を察知できるのか、何に心を通じ合えるのか。改めて分かるのならば、こんな鑑賞スタイルもあって良いでしょう。     人間は集合体になると野獣のよう。ガッツリ獲物を捉えに勝負をかける作品群の中、むしろ鈴でもって熊を寄せ付けぬこの素朴なものたち。同じ鈴を持っているもの同士だけが、リン リン リン と、秋の虫が互いの居場所を確認するように、それに心を交わし警告を理解する。野獣はその音構わず歴史を刻む。繊細なガラスの道を踏んづけ、足の裏から血が流れてもバリバリと大雑把に割り進む。そして生まれたガラスの破片たち、歴史の刻みカス。その一つひとつの怒り、悲しみ、美しさに心を通わすことができるのは、ちっぽけな個人の特権かもしれない。儚く鋭利な光、皮肉にも野獣の歴史無くして破片も存在しえないけれど。     こうして私は、アートの文脈を大無視して、アートバーゼルという大海原で鈴の音を頼りにガラスの破片拾いを楽しんだ。これでいいのだ!私は野獣ハンターではないのだから。自身の中に新たな言葉をコレクションし、バーゼルを後にひとり香港の夜景に迷い込む。小道、急坂、傷ついたアクリル板の窓越に吊るされた豚肉。排気口から蒸気。紅色の繁体字を下品にテカる金色がふちどり、冴えない小道をイカツく浪漫に仕上げてる。野良とペットを変幻する猫。目が合った。 ゴンゴンゴンと背後から私を追い越す二階建てバス。真っ赤なタクシー群が聴き慣れぬ信号機にひっかかり二手に分かれ、新旧入り混じるマテリアルの奥へと消えていく。明日は友達に会う。グーグルマップ片手にまだまだ吸い込まれそうな迷路の先。今夜の格安ドミトリーを目指し、リンリンと情熱がほとばしり、キラキラ掴めない破片と歩く。     ーあとがきー 4泊で香港アートバーゼルと周辺のギャラリーやアートスペースを色々歩き観てきました。4泊分の日記の文字数が収集つかなかったため、このコラムでは初日3月27日の日記から抜粋して編集しています。香港アートバーゼルに関しては多くのレビューが公開されるであろうと思い、ここでは周知の情報的なものは記述しませんでした。あくまでも作家目線の超個人的フィルターを通した世界から、自由なアートの楽しみ方、アートと日常が繋がっていること、香港初日の臨場感が伝わったらいいなと第1回目のコラムをお届けしました!次回は、私が滞在中の中国杭州で借りているアトリエ周辺についてです。よかったら次回もお付き合いください。   山本愛子 Aiko YAMAMOTO 作家 ウェブサイト http://aikoyamamoto.net 1991年 神奈川県生 2017年 東京藝術大学先端芸術表現科大学院修了 2018年から現在、中国美術学院新媒体芸術科研究生、ポーラ美術財団在外研修員として杭州に滞在中。

  • 作家インタビュー第11弾は、やましたあつこさん。2018年に東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業、2019年1月に行われていた個展「君を名前で僕を呼んで」を見に行ったあと、アトリエにてインタビューに応じていただきました。 https://atat000x.wixsite.com/siatsuko/statement https://www.instagram.com/siatsuko/    河口:やましたさんにとって美術、制作することとはなんでしょうか。 やました:わたしは結構生活に密着してるというか、なんか絵を描く時ってこう、描くぞみたいな感じで描いて、終わった!って仕事みたいに描いてる人が多いと思うんですけど、私はON/OFFとかはなくてずーっと、ずーっと描いてる。   ―:今も、お話ししながらずっと描かれていますものね。ポートフォリオに呼吸するように描くって書いてあった気がします。 やました:そうそう、生活することの一部っていう感じ。絵が小さい頃から好きだったんで。昔は重い腰あげて描く、みたいなところあったんですけど、今は全然そういうのもなくて、ご飯食べるみたいな感じで、絵を描く。   ―:昔って? やました:大学生の時とかはそんな感じでしたね。(作風が変わり)今の絵になりはじめたあたりからアーティスト活動を始めているっていう感覚で、その時くらいからはずっと絵描いてる。 展示だしたりとかコンペだしたりとかもしていて、卒業制作の時にずーっと描いていたんですよ。こんなに毎日描くくせに。 朝9時に起きて、12時に学校ついて、12時から12時まで12時間描いていて、12時になったら終電だ!って走って帰って3時くらいに寝て、9時に起きて、っていう生活をずーっとやっていた。そうしてる時に ”絵を描く”ってこういうことだなって。 前は絵を描くぞ!って距離があった。段階踏まないと描けなかったから、絵と自分の距離があったなと思っていたんですけど、その頃から、ぴったり絵と私の距離は縮まってきたというか。そういう風に思う。今は生活の一部、”描いてる”。   ―:私、やましたさんの絵って、辛さがないから好きなんですよ。それで、その後でポートフォリオ送っていただいて、見たらコンセプト文に「邪魔のない世界」って書いてあって、でも日常って邪魔ばっかじゃないですか。 やました:邪魔ばっかですね、本当に。   ―:さきほどおっしゃったように自分と絵の距離は縮まったとして、日常と空想の境って色々な邪魔が入って、大きな溝がある時に、その日常と空想の世界の溝はどう処理されているんですか? やました:考えたことはなかったんですけど、確かに邪魔は多いし、ずっと幸せっていうわけにはいかないので、なんだろう、何考えてんだろ。   ―:絵を描くことは、それを考えないための行為ではない? やました:行為ではないですね、邪魔のない世界っていうのは、話の中の二人がずっと一緒にいて、想い合える、性別も関係ない。それは人間にとって結構最高なことなんじゃないか、と思っていて。自分の小さい頃の幸せのイメージみたいなのもありますよね。ふたりの世界は邪魔はない。 空想は昔からしていて、いつでもどこでも時間があるとしたりしてる、それに慣れているから日常と空想の溝ってないかも。現実でショックなこととかももちろんあるけど、なんだろ、そういう事から絵が私を守ってくれているんだよね。 今の私にとっては二人を描いてることがわりと幸せだったりするんで、絵を描くことが一番好きだし、私の幸せと(空想の)二人の幸せはちょっと違ったりする。   ―:描くことでその世界を作りあげているのか、あると思っているものを描き起こしているのか、どちらですか? やました:前者ですね。創りあげてますね、完全に。空想することが好きだったんで。それが現実にあるとはあまり思ってなくて。 絵を描く時に「何が自分に一番近いんだ?」とか「何が一番描きたいんだ?」っていうことを大学入ったばかりの時によく考えていて、当時は本当の意味で楽しく描けていたわけではなかったんですよ。でも芸大に通っていたし課題もあるし絵を描くのは好きだから描いていた、そうしたら大学2年生の頃にネタが尽きてスッカラカンになって、じゃあ本当に描きたいものって何だろう。それがこれ(今のコンセプト)だったんですよ。でも恥ずかしくて。 自分の物語というか空想・妄想を描いて見せるなんて恥ずかしくて、自分の1番真ん中にあるものだし攻撃されたくないって思ってた。それを見せた時に他の人が悪い反応をしたらショックで無理だなっていうのがあって、それが怖くて出せなかった。描こうとも思ってなかった。 でもスッカラカンだし、描きたいものを描いてみよう!見せなきゃいいんだ!ってコソコソ家でイーゼル立てて描いてみた。そしたら楽しくって、全然上手く描けないけどとにかく楽しかった。まだその頃は後ろめたさがあったけど、楽しいが勝ってて。 見せないつもりで描いたのに、たまたまグループ展示があったから勢いで出したら、わりとみんな面白いねと言ってくれて「大丈夫なんだ。これ描いていいんだ」って衝撃だった。この空想以外だとなんもないから、他に描きたいものもない、自分に一番近いものじゃないと嘘になっちゃうから、嘘は描きたくないと思って、本当のこと描きたいから、これにしよう、と。 それまでは普通に家族とか当時付き合ってた恋人を描いていたりして、それが一番近いかな、みたいな。自分を形成する周りの人だから、と思って描いていたんですけど、有限じゃないですか。有限だから尽きちゃうんですよね。目の前に居てくれないと描けないし、やっぱり他人だから何を考えてるのか全部は分からない。描くのが限界あるなと思って、じゃあ何が全部分かるんだろう、何だったら、私が全部分かって描けるんだろう、何を考えてて、どんな性格で、こういう時はこんな事を感じて、そういう事がわかるもの、あとどうしたら楽しく描けるのかをずっと悩んでいたんですよ。 そんな時、こういう絵を描いて。自分に近いから描いていられるし、飽きない。日々受け取ったことを何か消化して形になって出してるので、無限に描ける。 本当に好きなものを描く。これを(今のコンセプトで)描き始めたら全部変わった。絵が私をいろんなところに連れていってくれる。いろんな人がリアクションをくれるようになったし、友達も増えたと思う。コンペも通るようになって、教授とかもいいねと言ってくれるようになった、個展もやってみよう!って、それで作品も売れたり。大学2年生の時にこの出来事があったのはすごくタイミングが良かったんだと思う。   ―:群馬青年ビエンナーレ(美術コンペ)の設営で、前日までドキドキしていたけど、絵が楽しそうにしてくれている、とおっしゃってましたけど、それこそまさに分身っていう感じなんですね。 やました:そうですね、分身。おしゃべりしてる感覚に近い。絵を描いてるときも、キャンパスを地塗りして作ったりしているときも、おしゃべりして描いてるみたいな感じ。 展示の設営は緊張するんですよ。いっぱい描いているし、しかもその場で展示する作品も決めるので、描いた作品を全部持ってきて、一回床に並べてから一個ずつ組み合わせて設営していくから計画的じゃないんですね。 だから終わるか分からないし、組み合わせが合わなかったりして設営できなかったらどうしようっていう不安はあって、展示する前は心配になるんですけど。 でも、作品が並ぶと、作品の方から大丈夫だよ!みたいな。飾られて嬉しいなぁ、いい景色だしこっちは大丈夫だよ。って。 あれ?私すごい心配したのにこいつらすごい楽しそーみたいな。心配して損した。でも毎回そんな感じ笑   ―:木だけの絵とか星だけの絵があったり、あとは最近ですかね、木の角の生えている子がいたり。その辺の生命の違いってあんまり意識してない? あんまりないですね。描いてるものっていうよりは、描きたいのは、人が感じる心の動きみたいなのが描きたくて、好きだから寂しいとか、好きだから幸せだけど、なんか虚しいとか、そういう感情の動きとかを描きたくて二人を描いている。だから女の子でも男の子でもない。女の子にみんな見えるけど、性別はあんまり意識してなくて、だってそっち(感情の動き)が重要だから。 絵具と喋ってるっていう感覚があったり、この二人とも会話はできるし。物語をなぞって描いていて、その中のシーンで星があったり、木があったり。   ―:すべての作品をまとってる雰囲気が柔らかくて、愛情深くて、優しいです。 やました:やっぱ好きだからですかね。描くのも、物語も。前は画面的に強い作品を作っていたんですけど、そうじゃなくて内面的・内容的な方が私は大事。   ―:赤と青って最近は違ってきてるとは言え、ストレオタイプ的に男女を示すじゃないですか。何で赤と青で描くんですか? やました:なんでだろう、私も分からないんですよね。単純に赤は好き、青も好き。そういうシンプルな理由かな。空想の中で出てきた時にすでにそうだった。   ―:それらって必ず絵として表れるんですか?物語として文章として出てきたりは? やました:文章として出てくることはあるけど、絶対に見せない笑 すごい言われるんですよ、そういうの見せないのか、とか言われるんですけど、私の話を聞いてくれっていうことじゃなくて、個人個人で感じて欲しいから、私はこういう話を書いてますって提示しちゃうとそれになっちゃって、それ以上考えなくなるなと思っていて、それは死んでから見つけてください笑   ―:燃やしてから死んだ方がいいんじゃない?笑 ちょっとしたステートメントの文章も比較的詩的なイメージがあって、そこは繋がりあるの? ステートメントは作っているけれど、でもそのステートメントを読んでも話の全貌はあんまり分からなくないですか。ふたりの関係だったり、私が客観的に見てる二人みたいな感じなので、そこは見てもらっていいかなと思う範囲でステートメントは書いてる。   ―:こんな二人だけの世界って羨ましい。 やました:羨ましいですよね。   ―:すごい羨ましい。洋服も着ずに、ただ生命として生きてるのが羨ましい。さて、次の質問に移りますが、転機となった作品があれば教えてください。 やました:みんな褒められたいとかあるじゃないですか、絵がいいねって言われたいとか。でもそういう邪念って考えれば考えるほど絵が悪くなる。人目を気にして絵を描いてると、全然楽しくないし、結局自分の描きたい絵じゃないんですよ。で、なんか絵が描けなくなる。何を描きたいかわかんない、みたいな。そういう気づきをもらった作品。 これがほんとに最初のころで、先程話したやつですね。スッカラカンになって、どうしよう、先生に褒められたいけど何を描きたいかわかんないしって、ちょうど2年生が終わる春休みで長期休みだったから、もう好きなことしようと見せる気なく描き始めた。その時の絵。 それ以前は、予備校・大学と課題を出されてそれに応えることを繰り返しているうちに、自分の描きたいものがわかんなくなっちゃって。焦ってましたよね。芸大入って、入ったら放任。みんな期待して入学すると思うんですけど、芸大に。実際は全然そういうのじゃなくて、自分で探さなきゃいけないし、入ったからって何かあるんじゃなくて、考えなきゃいけないし悩まなきゃいけないし。めちゃくちゃ焦ってましたね。   ―:作家として有名になることがいろんな人に見てもらう手段だから、私は作家になるならやっぱりある程度見てもらえる立場にいくべきだと思うんですが、でも、ほんとにピュアさを求めるなら、職業作家にならない方がいいという選択もある。そこは悩まずに絶対作家と思ってたんですか? やました:絶対作家。好きなことをして生きていきたいから、後者だと絵を描くために何か他のことをして稼がないといけないじゃないですか。作家になりたいし、自分が思ったこと、自分が生きてた事を残したい。描いて作品じゃなくて、人の手に渡って作品だと思ってるから。売れなかったりしたら、それはただの絵で作品じゃないから。 絵が売れたら嬉しいし、見てもらっていいねと言われたら嬉しい、それはいい事だと思うし、ピュアかピュアじゃないかは、本人次第だと思う。   ―:やましたさんは、見る人には好きに見てもらえれば、っていうスタンスだと思うんですが、今日も私が色々思ったこと言ってたら、うんうんそういうの聞くの楽しいからどうぞって。でもほんとに勝手なこと言われていいんですか。 やました:見てもらうのは自由だし感じてもらうのは自由だし、それを強要するのは違うと思うけど。嫌いだと思われても別にいい、ネガティブな事を言われてもそれはその人の意見だし。私は自分の作品の1番の味方だから、いいですねと言われればそれは嬉しい。 絵を通して何かを気づかせたいっていうのはないけど、美術予備校で先生やってるから、そういう子たちに自分は絵を描いていて、個展したり、コラボでこういう絵の仕事もらったりしてるよって活動してるのを見せたいんですよ。みんな不安なんですよ。美大は行きたいけど、アーティストになるためにはどうすればいいかわからない。美大入ってからってすごく謎じゃないですか。みんな一度入ってから絶望すると思うんだけど。そういうのを無くしたいというか、自分の生徒には見せたくて、絵で食っていけるんだぞって作品っていうのは売れるんだぞって。半分くらいはバイトだけど、半分は絵で稼いでるから、まだまだだけど、そういうのを見せたい。 私の先輩はそういうの教えてくれなかったし、卒業したら何してるのか分からないっていうパターンが多くて、それも怖かったし。みんな何処に吸い込まれていってるんだろう?!って。   ―:それはほんとにそう。あの人は今?!状態は美大あるあるですよね。 やました:それをそうじゃないんだ。って見せたいんですよ、私は。 責任感じゃないけど、なんで頑張れるか、去年はコンペ出しまくって、卒制なのに個展もやって他の展示も出して、なんでそんなに動いてるの?って言われたけど、なんでっていうと絵を買ってくれた人たちに恩返ししたいし、生徒には、希望を見せたい。 こういうやり方があるんだ。とか分かるじゃないですか。個展とか展示をしたら活動しているんだなって、賞を取ったら自分が買った絵が少なからず評価されているって絵を買ってくれた人も嬉しいじゃないですか。そういうことで、なお頑張れる。基本頑張りたい。それは最近思っている。前は本当に誰も私のこと知らないから、とにかくがむしゃらにやってたけど、頑張る理由は前より少し変わったというか増えたというか。 相談されるんですよ、生徒に。私は私がわかる範囲で全部答えるけど、予備校って絵を教えてもらって「作家になるにはどうしたらいいんですか」って先生に聞いたら、先生はアーティストじゃない人だから答えられない。とりあえず描けよ、って言われる、それって不思議だし嫌じゃないですか。   ―:いい。先生が頑張ってるってすごい重要だと思う。どこから美術に興味を持たれたのでしょうか。 やました:物心ついたころから。それ以外にない。いいんですか、こんなんで。笑   ―:すごくいいじゃないですか。笑 好きから始まって、いろいろ葛藤あったかもしれないけど、好きのまま、それも呼吸をするように自然に好きで今いることが素晴らしいなと。 やました:好きですねー、絵がなくなったらつまんない。絵がなくなったら人生どうしようとかじゃないけど、なくなったら普通に人生つまんないと思う。   ―:自分は人間がすごい好き、人類って何だろうってところからそもそもは始まって、美術に来たんですけど、美術を通していろんなものを見ることができていて、美術やってなかったら何やってたんだろって思いますよ。 やました:ニートじゃないですか。   ―:ほんとそれ。ところで、アートに限定せず影響を受けたクリエイターはいますか。 やました:あんまりいないかも。好きな作家とかはいますよ。でも、影響を受けたっていうほどの影響はどうかな。 自分が生活していく中で、いろいろ影響を受けて今の自分や作品があると思うので、コレというのはあんまりないかな。映画見たりとか海外行ったりとか、日常の体験が強い、そういうのじゃないと。 映画は『ぼくのエリ200歳の少女』とか。個展の展示名も映画の題名使ったりするし。ぼくのエリは人間とバンパイアだけど、同性同士とか、ちょっと違う人の恋愛、その中で生まれる感情の動きとか好き。   ―:最後になりますが、今後作家としてどのような活動の展開の仕方を考えていらっしゃいますか。今挑戦されていることなどありましたらお聞かせください。 やました:有名なアーティストにはなりたい、それはずっと目標。個展も展示もしたいし、やったことない場所でも展示がしてみたいし、商品のパッケージデザインとか陶器の絵付けとかやったけど、本の表紙もやってみたい。 みんなが思うアーティストって絵一本とかかもしれないけど、私はいろんなことやってみたくて、作品として展示とか個展もやりたいし、プロダクトデザインもやってみたいと思ってて、そういうのできたらいいな。自分を知ってもらうきっかけとしてそういうことはやりたい。実際の作品を見てもらうのが一番だから、最終的に作品を見に来てもらいたいな。 今年語学留学したいと思ってて、海外去年5か国くらい回って、英語の重要さ感じて、短期でも行きたいなと思ってる。そしたら海外もレジデンスも行けるかなって、そんなこと考えたりしてます。

  • 作家インタビュー第10弾は、永井天陽さんです。 https://www.solayanagai.com/ 河口:初めて永井さんを紹介いただいて(去年一緒に仕事した作家さんの運転手として挨拶したのが最初の出会い)から、ずっと作品が気になっていました。リレーではないですが、せっかくお時間をいただくのなら、グッと近づきたいなと思っていたので、インタビュー応じていただけて嬉しいです。 早速ですが、近年の制作のテーマについて教えてください。 永井:何だろうなって考えてて、作品が出そろってきて、ひいて見たときに共通項があるのは事実です。素材の形やイメージを消したり補ったりしながら、存在・認識への問いかけをしています。またすごい大きいテーマでいうと、見たことのないものを作りたいという思いが強いです。瞬時には把握しきれないもの、形態を作りたい。 ステートメントとしてあげているのは、 ~~~ 日常の中にあたりまえのようにあるもの。 出来事、行為、ルール、名前、生まれることや死ぬことなど。 私はそれらの見方や在り方を少しズラして、もう一度自分の目で確かめてみたい。 物事の境界や輪郭に向かって、石を投げるような具合で。 ~~~ 2014年に青森県立美術館で展示した時に書いたもので、そのまま使っています。 物事やちょっとした“しこり“に向かってポンっと石を投げてみて、その反応や跳ね返りからそのもの自体を探ってみたい、というような感覚があってこのような言葉を使っています。   河口:今でも、こればベースにあるということ? 永井:そう、結局こういうことをしているんだな、と思います。素材は変わっても。ちょっとしたところから人をハッとさせたいなと。 例えば息の仕方を考えるとか、別にそんなこと向き合わなくても自然と息は吸えるし、答えはわからなくても息は吐けます。でも実はすごく恐怖を含んでいて、考えだすと眠れない、宇宙ってなんだろう、死ってなんだろう、みたいな、そういうところと美術って密に関わっていると感じます。息の仕方を考えるような身近さ、気楽さ、少しのばかばかしさを残しつつ、制作・作品に変換していきたい。たぶんそうやって「カタルシス(排出・浄化)の方法を考えること」が美術だと思うんです。 また、すごく感覚的な話になっちゃうけど、美術だったら新しい世界を垣間見ることができるんじゃないか、新しい世界を探る術が美術なんじゃないか、という夢を持っているようなところがあって。たぶん今、私たちが生きて存在しているこことはちょっぴり違う世界ってあって、そこを感じる、覗くことができる方法が美術だろう、って思っている。空想的すぎる考えかもしれませんが。美術の可能性はずっと信じていたいし、夢見ていたい。   ―:こうやってお話しさせてもらっていると、美術をどう捉えるか自体が、作家それぞれの制作に対する姿勢に通じていると思います。いつも最初に「近年の制作のテーマ」を聞いているのですが、皆さん口を揃えたように「テーマ」ではないんですけど・・って話し始めるんですよ。もっと適切な質問の仕方があるんじゃないかと悩んでいるんですが、どう思います? 永井:「あなたにとって、美術/制作活動とは何ですか」っていう質問の方がしっくりくるかもしれませんね。先ほどもお話しした通り、私にとっての美術は「カタルシスの方法を考えること」だと思います。それと美術は長く続く感動かなと。細く長く続いて、その間にいろんなものの見え方が変わる。影響範囲が広い。 生活のちょっとした疑問とか、考えだすとキリがないし、答えって何もないかもしれないけど、それを考えることで、生活に対するみずみずしさが増えたりする。それはひとつ美術がもたらすものだと思うんです。良くも悪くも視点が増えて、世界を疑って生きていけるような気がします。   ―:永井さんの作品って既製品を使っているものも多くあって一見簡単なように見える、でも実はその背景、制作工程がものすごく複雑だったりしますよね。それも狙ってるところだったりするんですか? 永井:最初は狙ってはいなくて、結果的にそうなってしまったんです。でもだんだんとこの在り方って、ありだなって…。笑 手間数を見せない、過程を想像しきれない、形はキッチュで笑っちゃうようなものであったとしても、多くの工程を踏んでいることで、複雑さが裏に含まれてるような表現になるんじゃないかなと。   ―:制作過程で他分野の方と一緒に作られていますよね? 永井:はい、ここ数年いかに自分が出来ないことがあるか、っていうのを目の当たりにすることが多くて…、こんなにできないことがたくさんあるなら、もっと専門的な知識を持っている人に協力してもらって造る方がいいじゃないか、とだんだん割り切るようになりました。すごく作りやすくなりました。 例えばホームセンターで手に取った素材、この素材いいな、作品で使ってみたいな、と思った時に、自分自身に扱えるかどうかで考えちゃってたところがあるんです。けど、そこを自分でやる前提でなくて、誰かの力を借りたらできるかもしれないぞ、と。その選択肢を持っておくことで、素材への新鮮さを失わず作りたいものを模索することができると思います。それでも自分でやれることはやるし、これは専門家に頼んだ方がスムーズだと思う時はそうする。振り分けています。 自分の作品プランをプラスチック加工会社や、石屋とかに持っていったりするんですけど、ありがたいことに興味を持って受け入れ協力してもらえることが多くてびっくりしました。てっきりもっと怪しまれるものだと身構えていたので…。そういう反応を随時受け取れるのは、作ったものをいろんな人に見てもらうのと同じくらいに刺激があるしモチベーションに繋がります。   ―:その方が作品としての精度も高まる。 永井:そう感じます。 規模が大きくなったら面白そうだなと思っていて、ざっくりした夢だけど、ラボ化できたら。何かがある度に連絡とって、違った分野の人たちで一緒に難しいことにその都度チャレンジできたら面白そうっていう漠然とした夢があります。   ―:永井さんの作品って、これってどうなってるんだろう、っていう違和感だったり、知った時の驚きだったり、遊び心にこちらがくすっとしてしまうような面白さがあります。作品のインスピレーションはどうやって得ているんですか? 永井:ポっと浮かぶひらめきや思いつきは結構大事にしています。思いつきって、美術界にいると、否定的なニュアンスが含まれるというか、あんまり良い印象ないと思うんですけど、たかが思いつき程度のものでも、その程度を自覚しつつ形にしたら面白いじゃないかと。形にしようとしてみる、ということはしようとしています。こういう作品にするぞ、っていうよりは、ちょっとした現象からキーワードを拾ったりもします。 素材はいつもアトリエにストックがあって、手が何か動かしたい時に、置いてあるものを気楽に手に取れるように、ちょっとしたところから制作を始められるようにしています。 ―:転機となった作品があれば教えてください。 永井:こちらです。大学2年の時の授業の課題で、アトリエに3日間椅子を置いて、授業中ただ座るだけで何も考えようとしない、でも思ったことはメモにとることを続けて、その3日間が終わった4日目に2人の先生が持ってきた、ふたつのメディアを使って、3日間のメモを元に同時に同等の作品を作る、という授業でした。 ネコのトイレの砂の上でプロペラが回っている。普通に考えると、モーターがプロペラを動かしていると思うけれど、実はモーターが固定されていないので、プロペラがモーターを動かしている逆の関係性になっている。そうやって動いているからちょっとずつ痕跡がずれていく。すごく直接的な作品にはなってしまったけれど、秩序があるなかで、ふと秩序が乱れているところがある、なにかしらのちょっとしたズレにここで気付いて言語化することができたかなと思っています。 美大は入ったけど、課題をやっていって、サボるようなこともしないし、普通にやってある程度いいものはできているように思うけど、そこから作家としての自分の作品ってどう生まれるのか分からなくて。自分が作家性を獲得できる気が全然しなくて…。課題から外れて、一作家として何かを作るとなった時に、何も作れないんじゃないか、そもそも作家にはなれないのではっていう恐怖があったから、必死でした。その程度は違えど、今でも怖さは感じてしまいます。   ―:次の質問に移りますが、どこから美術に興味を持たれたのでしょうか? 永井:実家がまあまあ田舎で、幼い頃テレビが映りづらかったんですよ。アナログテレビの上にアンテナがあるんですけど、(ちびまる子ちゃんの家のテレビみたいな…) 映らない時にはアンテナの場所を変えたり、外に出してみたり…と、いろんなアクションをしないと見たいアニメとか、紅白とかが見れない。だからアンテナを持ってテレビが見える範囲で手を伸ばしたり、あとは弟にやらせたりして。笑 とにかく、いろんな努力をしたんです、テレビを見るために。その思い出ってすごく強くて。当時の私としては、飛んでる電波をいかに捕まえるかっていう意識でアンテナを振り回していて、見えないものを捕まえたい欲、どこに3ch飛んでるんだろうとか、セーラームーンはここか!?とか幼いながらに考えていました。もちろん当時は言葉にして考えられてはいなかったですけど、見えないものに興味を持っていたことは、今思い返すとあったなと思っています。 はじめにお話しした、息の仕方の話にもつながりますが、恐怖とか見えないものに対する関心って思い返すと度々あったなと感じます。大学に入って作品をつくるときもそういう感覚を思い起こしながら作っている時があって、関係しているのかもしれないと気付きました。その程度のことともいえるけど、その延長にあるものとして美術がある。声を大にしていうことじゃないんだけど、それでもいいから形にする。形にしてみたい。 あとは、父がリトグラフの作家で、絶対に影響はあるだろうなと思っています。父の作品は、抽象的な作品なので、どうしてそういう作品を作れるんだろう、という疑問はすごくありました。どこからその形が浮かんでくるのか。何をどう選択しているのか。ものを上手く描くよりは抽象的な方に自分の意識が変わっていく段階にすごく興味がありました。   ―:永井さんの作品は、考えようとして見なければ、そのキャッチ―な見た目の方に流されてしまうけど、人に謎解きをさせるような面白さがありますよね。 壁一面に設置されたurntoシリーズも、子どもが「かわいい~」といいながら見ていて、カプセルの中に鳥の剥製が入ってるけど、「かわいい」っていう感想でいいのか、とか。笑 そもそも、urntoとはどのような意味なのでしょう? 永井:”urn”は英語で骨壷という意味です。そこに”to”をつけることで「骨壷へ」というような意味を込めている(文法的にはおかしいんですが…)のと、あとは『ウルン、と』という涙が目に溜まって行く様を表す音を込めた造語です。作品の見た目のポップさと対比するタイトルをこっそりつけたいと思ってこのように名付けました。普段から作品のタイトルには、その作品と同じ質、同じ関係になるように、言葉を素材として制作するように名付けています。   ー:作品自体のもつビジュアルを抽象に移していくことは考えるのですか? 永井:抽象的なことも合わせててやりたいなと思います。完全にふりかえるんじゃなくて、常に作品には幅を持たせたいなと考えています。自分の作品の棘があるような部分は、気づく人は匂いで分かってくれたらいいかな、というような感覚です。   ―:アートに限定せず、影響を受けたクリエイターはいますか。 永井:影響を受けたといえば、ジャコメッティは確実に影響を受けています。美術高校受験の時に一個展覧会を見てくる、という試験があって、川村記念美術館のジャコメッティ展を見て、その時はじめてきちんと彫刻を「観た」っていう実感を持った、ショッキングな出会いでした。これが彫刻なのか、と。その時に彫刻をやろうとは思わなかったけど、面白くて分からない分野だなぁと、どこかひっかかっていました。 戸谷成雄さんの作品を「引込線」で見たこともムサビ(武蔵野美術大学)を受けるきっかけになりました。 それ以外に好きなアーティストっていうと数えきれないくらいいるんですが、、Handywipman Saputra、Urs Fischer、Richard Serra、最近は渡辺英司さん、Felicity Hammond、Rachel de Joode、Susy Oliveira・・・などのアーティストが気になっています。 セザンヌやムンクなども好きです。ムンクの少女の絵には強烈な影がついているんですけど、これはなんだろう、なんでこういう影を描くんだろう、そういうところから惹かれたりする。 ―:気になる作品というのは、どういう影響の仕方なのでしょう。 永井:その作家がどういった経緯で何を見て、どんな作品を作っているのかとか、素材とか形も何をどうチョイスしているのか見てしまいます。あとは、すごい単純なんですけど、こういう見せ方いいなぁとか…、作品を見ていると家に帰って私も作りたい…、そんな気持ちになります。 昨年末、上海行ってきて、ルイーズ・ブルジョワ(六本木のある巨大な蜘蛛のオブジェの作者)の作品に圧倒されました。いかに自分が狭い範囲で考えているかを突き付けられた感じがして。展示のキュレーションがどうこうじゃなくてモノに惹きつけられる。今まであまり大きいサイズのものは作ってきていないんですが、躊躇なくやれる時にやりたいなと思って、チャンスがきたら掴めるように、常にやるぞ、と思っておこうと。 あとは詩も好きで、特別詳しいわけではないけれど、古本屋に行ったら目にとまった詩集をよく読みます。長谷川裕嗣の「いないはずの犬」という詩集や、中村千尾の「日付のない日記」という作品が好きです。「日付のない日記」の中に出てくる“口をあけたような青い空も泣いた”という一節が特に心に残っていて…。あとは国語の授業とかで読んだ経験がある方も多いと思いますが、高村光太郎のレモン哀歌。レモンを「がりり」と噛む、っていう、この表現すごいな。このさりげない音でリアリティを出す、心境が伝わる。 小説だと、吉本ばなな。彼女の作品は主人公が女性でうまく生きれてないようなところがあるんですけど、なんかその女性っぽさが妙なんですよね。無職だったりとか、軽くひきこもってる状態の話だったりとか、それがそんなに痛々しく書かれてない妙。「キッチン」はふと、手にとって読み返しています。   ―:そう思うと、日常の中にある非日常というか、本当に些細なところに魅力だったり違和感のあるものに惹かれていて、永井さんの考える美術が生活にもたらすものであったり、作品制作におけるコンセプトに通ずるものがありますね。 最後の質問になりますが、今後、作家としてどのような活動の展開の仕方を考えていらっしゃいますか。今後の展望や今挑戦されていることなどありましたらお聞かせください。 永井:先日先輩の作家さんが作品の作りだめをしていると話していて、それはいいなと思って。私も考え作る時間、数を増やしたいです。どれだけ作れるかは不安ですが…。じっくり作る時間をとりたいなっていうのが今年の身近なやりたいこと。 あとは作家を続けることが一番目標というか。ある程度人に見てもらって、作品を買っていただいたり、文章を書いてもらう機会とかも増えてきていて、続けるのも責任だなと思っています。続けたいし、他にやりたいこともない。散歩したり自転車に乗ったり、釣りとか登山とかも好きですが趣味ってわけでもないし、美術以外にやりたいこと、大好きなことがそんなにない、なんか消極的な感じになっちゃうけど、例えばスポーツとか好きだけど一日かけてはやりたくない。   ―:一日って。笑 私、一日はスポーツ漬けやりたいけど。 永井:特定の何かにのめりこめるわけじゃないから、趣味がないって、結構良かったかな。 あとは短期の滞在でも、旅でもいいので海外に行きたい。日本で活動する面白さも残しつつ、制作やリサーチのためにも気になったら躊躇なく行ってみたいし、そうでなくても、生まれ育った場所とは全く異なる土地での生活自体に興味があります。そうしていつかもっと大きなことをしてみたい。 ビエンナーレとかそういう場面で、いろんな人や技術を巻き込んで制作・展示してみたい。まだまだ現実味がないというか、漠然とはしていますが、一つ夢としてこういうことは言っておこうと…。日常で小さく回転しないように。  

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