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5月 2018

作家リレーインタビュー第三弾は、衣川明子さんです。松尾ほなみさんからの紹介です。 衣川さんはURANOギャラリー所属の画家、一度見ると、忘れられない非常に印象深い絵を描いていらっしゃいます。 https://urano.tokyo/artists/kinugawa_akiko/ 衣川さんの作品は実際に拝見したことはなかったので、インタビューは、山梨県清春芸術村でちょうど開催されていた「高橋コレクション 顔と抽象展」に出品されていたものを見に行き、後日雨がしとしとと降る中、アトリエにお邪魔させていただきました。 (人のアトリエに行くのが珍しく、雑談がてら、アトリエに置かれているものについて質問していると、今度6月に長野県木曽で開催される展示期間中に行うお面ワークショップの試作だとのこと。ソファに座らせてもらい、インタビューを始める。) 河口:今日インタビューさせていただく前に、大体の質問事項をお送りする、とメールしていたのですが、それが出来ませんでした。というのも、メールでもお伝えしたように、実際に山梨まで行って作品を拝見したのですが、なんというか、言葉にならないんですよね。見て、ものすごく感じるものがある。でも、この感覚を、まだ会ったこともない人に対して、うまく伝えられるとは到底思えなかった。これはもう直で話して、どんな人か知るところからしか始められないと思いました。 衣川:わざわざありがとうございます。 ー松尾さんから紹介いただいて、衣川さん存じ上げなかったので、ネットで作品見たんです。その時は、すごく暗いなと思っていたんですが、いざ作品に対面すると、案外そういう感じがしないんですよね。 衣川:そうですか?自分は、どの作品が展示されているのか知らなかったので、見に行った時、「暗いな~」と思いましたよ。(笑) (清春芸術村にある)ルオーの礼拝堂が見たかったので、それで満足だったんですが。 ーご自身の作品をそのように思われるのですね(笑)私は不思議な感覚を受けました。なんと言えばよいんだろう?私は作品を見て好きだった。でも、それが何故か説明できないんです。人に薦めるとしても、「私は好きだったからあなたも見て」としか言えない。。。だから質問項目を作れなかった、というのもあるのですが。 衣川:あぁ、それはよく言われます。語りづらいというか。 ーはい、なんとも不思議な感覚です。暗くはないんです、で、内面的なんだけれども作者の個人的な想いは超越していて、ある種の感情を見る人に抱かせている。絵に対する表現として、適切じゃないような気がするけど、これは体験するしかない。知りたいなら体験するしかない。 衣川:そう言ってもらえるのは嬉しいです。でも、それって、すごく当たり前のことだと思うんですよね。私は、技法的にはほんとに普通のことしかしてないというか。「こういう構造でこういう意味で」っていう説明だと大して言うことが無くて。 私は、ただ用事があって絵を描いているという感覚があります。モノをつくる人は、誰でもそれぞれの用事があって、つくっているんだとは思いますけど。 ー(インタビュー中に何度も「普通」という言葉が繰り返される。)創作するということは、なかなか呼吸するように普通にできるものでもないように思うのですが、大学を卒業されると、毎回講評会みたいなものもないし、どうやってモチベーションを維持されているんですか? 衣川:卒業後1年くらいは展示が重なって決まっていて、モチベーションがどうとかは特に無かったですが、それが落ち着いて、じゃあ次何しようってなりました。それまで自分だけの物だった作品が商品になるのも切り替えが難しかったですが、「作品としての価値」の話と「商品としての価値」の話を一緒くたにして聞いてしまっていたので混乱していました。いろいろな視点・立場から作品について言葉をもらい、価値の有る無しを与えられているような、求められているような感覚に勝手になったりもしていました。でも実際は、作ることや作品を扱う事に対して誠実な言葉とただの世間話の違いがわかっていなかっただけで、腐った時も身近な人の言葉に何度も助けられています。 それで千葉のアトリエに4・5年引きこもって、作品に向かっているけど描けないみたいな状況になっていましたが今はアトリエも移って、整理もついてきているので楽になっています。 ーなるほど。 衣川さんは、内的なものが作品のテーマであるように感じるのですが、そういった自分が内面に抱えているものが創作の源泉だとすると、それらがなくなることってないんですか?あるいは、絵を描くことでそれが浄化されて、いつかなくなるかもしれない恐怖とか。衣川さんの「用事があって絵を描く」という表現は、私には非常に面白く映るのですが、つまり、いつかその「用事」がなくなってしまわないだろうか、という恐怖。 衣川:内面的なものは、なくなりました(笑) ーえ?(笑) 衣川:いえ、一時的にですけど。先ほども言いましたけど、やっぱり他人の考え方とか評価が気になると絵と自分との間に距離が出てきて、絵に対する信頼がなくなってしまったんです。 私は、絵を通して何かを人に伝えたりできると思っていたんです。自分の気持ちを分かってよ、ということではなくて、自分の作品を通して人に何かを感じて欲しい。でも、自分の絵は伝えられているように見えなかったです。もっとわかりやすく言葉でも説明できるようにと考えて描こうとしたら、絵との距離がどんどん離れていきました。 ー今も絵を描かれているということは、絵に対する信頼がいくらかは回復したのかと思うのですが、それはどうやって? 衣川:うーん、自分は子供の頃から動物のことを考えていて、絵を通してそういったことを伝えたかったんです。でも、「良い絵ですね」としか見られなかったり、そうでなかったとしても、絵ってやっぱり自分の意図が正確には伝わらない。その時に、「絵なんか描いてる時間使ってもっとやる事あるんじゃないか」とか、絵の無力を感じると同時に、絵ってそういうものなんだな、ってわかってきた。自分の考えを直接的に説明したいのなら言葉を使うべきで、絵の役割は別にあるというか。自分があまり説明だけの絵が好きじゃないのもありますが。 絵を描くことは苦しいですけど、喜びや充実感もあります。描いていて、言葉がなくなる瞬間とか。言葉がなくなりつつも、絵がしゃべるように感じたり、思考とは違う感覚を使える所でもある。そっちのほうが絵の本来的な役割なんじゃないかな。 あと、動物のことを話すと、なんで絵なの?と聞かれますけど、多分、言葉で伝えられなかったからというのも大きいと思います。動物を傷つけないでと伝えたくても、同じものを見てきたわけではないから、動物に痛みが有ることを信じない人もいる。言葉でその状況を説明しても、共感する気がなければ伝わらない。それならその動物の感情をそのまま見せてやるって意識はあって、絵の方がそれができるんだと思います。 (大きいのは梱包しちゃってるけど、といいつつ、小作品を次々と押し入れから出してくれる) 自分の絵は暗いと思うんですか、暗いというか弱さがあるというか、でも感じさせたいのはそこじゃなくて、そういった暗さとか負の部分を知らないと、明るい方向には行けないんじゃないかなと思ってて。暗さや見たくないものの中に光を見れるようになりたいです。 ー動物について考えていた、というのはどういうことですか? 実家が動物愛護をやっていて、野良猫や野良犬の保護ですね。そういった動物が何匹もいるような家でした。それをずっと見ていて、動物は殺していいとされている、物でしかないのが理解できなかった。人間が人間のために作った社会だし、自由に搾取する相手がいないと困るのもわかるけれど、子供のころは、動物映画で泣いてる近所のおばちゃんにとって野良猫は殺していい物だったり、人権について語る人が動物に無関心なことに不満をもっていました。 それで、動物と人間をもっと平らに見て欲しいという思いがあって、人間や動物の絵、あるいは人間と動物が合わさったような絵を描いているのですが、それらを全部水平に並べたりしていました。 でも絵は、直接的な活動や批判と違って、表現になってくれます。私の怒りやネガティブなものだけでなく、そこに付随する人間同士の不和や調和、愛の構造、自分の意識に上っていない所まで表現として、立場を超えて伝えられる可能性を持っています。絵を通して、知らない人と対話できるのなら、見る人に何かしらを感じてもらえるのなら、絵を描く価値ってあるなと思います。 ー先ほど、何年か千葉の実家に戻っていたとおっしゃっていましたよね。そしてそれが辛かったと。動物が雑に扱われている場面を見るのが嫌だったなら、何故そんなに何年もいたんですか?私だったら、見たくないものからは一刻も早く逃げ出したいと思うのですが。 衣川:いや、辛かったですよ。でもどこにいても動物は似たような状態だし、見るか見ないかの話でしかないので、どうせなら関わろうと。でも絵を描くメンタルとのバランスは難しかったです。ずっといた子たちが病気でパタパタと亡くなり、一段落ついたから東京に来たということです。 ー(話しながら机の上を物色していると、遠藤周作の本がある。)あ、私、遠藤周作好きです。学生の頃、国語の時間に「沈黙」を読んで、それから何回か読みなおしました。 衣川:私も、小学校の教科書で踏み絵を知ってから、ずっと気になっていたのですが、遠藤周作を読んで、理由が分かったような気がしました。踏み絵を強制された当時のクリスチャンは神を愛しているのに、自分のために踏んだ。踏んでいるのに、自分を責めることなく愛してくる。その姿が、私の中では、人間である私と動物の姿に重ったんだと思います。 動物を愛したくても、人間社会で生きる以上システム上動物を殺してその恩恵を受けて生きている自分を、人間に虐待されてもそれでも愛してくる動物への感情をもって踏み絵を描いたりしていました。実際の動物と人間の関係はそんな単純でセンチメンタルな話でもないですが。 ーなるほど。踏んでいるのに、愛してる。話していると、少しずつ衣川さんという輪郭が見えてきて、絵の見え方が変わります。 絵はストーリーに左右されやすいですからね。そういうのが邪魔だっていう人もいますし。 ー先ほど、絵の役割という話がありましたが、絵の限界というか、絵が担えない部分については違う手段を使って表現したいと考えていらっしゃいますか? んーこれは、木をハンダゴテで焼いたものだったり、 一番外側のは、石膏に水彩絵の具で着彩したものだったり、自分で実験的なことはしますが、絵の準備運動みたいなところがあります。 同じ構図で描いていると、どうしても、工程として絵具をこのように塗り重ねるとこのような画面ができる、という風にやり方が分かってきてしまうので、素材を変えて刺激を与えた方が楽しいです。 ー今日はありがとうございました。こんなに深く作品を前に作者とお話しできたのは初めてです。自分なりに、作品に近づけたかなという感覚があります。また展示される際には、見に行きます。 はじめてのアトリエを訪問してのインタビューはとても濃厚で、作品が生まれる場所で作者から直接言葉を聞くことは、異次元の世界に入り込んだような感覚がありました。まだまだ未熟なインタビュアーに言葉を丁寧に選びながら、こちらの質問に真剣に答えてくださった衣川さんに感謝します。ありがとうございました! 聞き手/書き手:河口

小久江峻 個展『絵画の種子』 ー絵に空を飛んでほしいー   4月21日、この春に東京芸大油画専攻を卒業したばかりの小久江峻さんの個展『絵画の種子』の初日に訪問してきました。 在学中に清水と同期だった小久江さんは予備校時代からの同級生でもあります。   昨年末よりこちらのライズギャラリーさんで連続展示の企画があり、小久江さんは他の方とのグループ展と個展を含めて4回の展示を行ってきました。 http://www.rise-gallery.com/top/top.html   場所は東急東横線の学芸大学駅から徒歩13分と少し離れた住宅街の中。ここへ来るのは2度目ですが、駅の周りといいギャラリーまでの道のりといい、生活感があるけれど穏やかで雰囲気がとても良い。 駅からしばし住宅街をまっすぐ南下すると、道路沿いのイオンスタイルの建物の裏にライズギャラリーはあります。 建物入り口左側にはデザインストアが併設されています。   展示初日のこの日はギャラリー奥のメインエリアでレセプションパーティが行われていました。小久江さんとギャラリーオーナーとその関係者の方が数名いらっしゃいます。 作品を見つつ、作家本人からお話を聞くことができました。   こちらのギャラリーは入り口近くに写真のような特徴的な曲面壁のスペースがあるのですが、まずそちらに大きめの作品が1つ。 今回の小久江さんの展示では、キャンバス木枠にそれよりも一回りサイズの小さな木枠を重ね、その上から布を張って凸型にしたキャンバスを使った作品が何点かありました。このスタイルについて詳しくは後述しますが、これがとても面白い。 特にこちらの壁では、壁が凹んでいるのに対して作品が手前に膨らんだ形になっていて、見ているとなんだか錯覚を起こすよう。壁に落ちる影の形も、平面壁に展示した状態とは大きく異なっているはずです。   曲面壁エリアの向かいにはこちらの作品。 以前に制作されていた作品に似たスタイルで、周囲に「逃がし」があります。私の言葉になってしまいますが、作品と周囲の空間との繋がりを柔らかくするための工夫、だと言えます。 気になるのは、作品の台座にしていると思われるレンガ上に左右非対称に綿が敷いてあるところ。良く見ると作品画面上にも絵具に混じって綿がくっついていたりする。 綿の白い色がアクセントにもなっているし、理屈では言えない何かへの配慮やら優しさの表現のような。 隣には変形していない通常のキャンバスの作品たち。他の作品たちのような「逃がし」を行わずにやってみる、というテーマがあって無変形のキャンバスをここでは使っているそうです。 この中ではこちらの作品が一番深みが感じられていいなと思いました。奥行きがある…ような。この絵は一度描いた作品を潰すようにもう一層絵具を乗せているそうです。なるほど、だからか。 レセプションパーティの会場にもなっている奥の広い空間に移ると、まず気になったのは一番奥の壁にぽつんとある白く小さな作品。 綺麗でちょっと寂しくて切なくて、よい…。この小さな1枚でこの壁は完成している感じがあります。少し壁から飛び出す形で展示されていたのでよくよく見てみると、ここにも壁面との間になんだかよくわからない綿があしらわれています。しかしこの、なんだかよくわからないってことがとても大切で面白い。 理屈でなんだかよくわからない。面白いなと思う作品制作をする油画学生のほとんどが、私の理屈っぽい頭からは到底捻りだせない感覚的なものづくりをしているように感じています。 書き手の私は生活の基本がいわゆる左脳的な感じ。過去と未来を考えて計算的にスケジュールを考えて今やるべきことをする、社会人の方は大抵がそうなのではないかな?と思う考え方が基盤にあります。作品制作なら、最終形のクオリティをどのようにしたいから下地をこう扱おう、それを何日間でやろう、みたいな。 一方で、油画科の同級生と話していてよく感じたのが、彼らは「今現在の目の前の素材と身体感覚的に向き合っている」という印象です。なんとなく触った絵具が、作品の中で感覚的に心地よければ、それでよい、というように偶然を肯定していくようなスタンス。何のモチーフを表現しているのかわからないような、いわゆる抽象表現には大切な感覚なのではないかと思います。   それを確認したくて、小久江さんに絵を描きだす時の最初の1色目では何か計画を立てるのか?と尋ねてみたのですが、「例えばその時偶然足元に落ちていた絵具のチューブの色から」だとか、何も縛りを設けずに絵を始めるのだそうです。そこから絵の中でやり取りをしていく。 うまい写実描写以外に絵の価値というものが全く分からなかった私が、抽象表現って面白いな…と感じられるようになったのは小久江さんとの出会いが大きかったと思っています。 私の視点ですが、彼は徹底的に右脳的感覚が日常を主導しているのだと感じています。彼が制作について感覚から話す言葉を私が私の分かりやすい言葉で要約して置き換えて確認してみても、それはちょっと違ってしまっていたりする。小久江さんが言っている感覚的なものごとに対してなるべくズレた誤解をしないように汲み取りたいと思ってきましたが、同じ日本語を話しているのに言語を扱う感覚がこんなにも違うということが興味深くて面白くて、私は在学中そうしたコミュニケーションをとても楽しんでいた気がします。   展示の話に戻りますが、メインの空間には小久江さんが一番気に入っているという3点セットの作品がありました。 私の色感は間違いなく真ん中の白が入ってる作品が一番綺麗でよいと訴えてきていて、でももし本人が左右の方が好きだったら申し訳ないなと思って左右の作品には言及できずにいたのですが、本人も真ん中の作品が一番気に入っているとのことで安心しました。 今回の展示で新たに取り入れられている木枠を重ねた凸型キャンバスについて、詳細なお話を伺いました。 以前から小久江さんはキャンバスの張り方を工夫されていました。市販の張りキャンバスのようにきちんと四角く硬く布を張るのではなく、あえて柔らかく、木枠を見せたり布の耳をはみ出して残したり。このレポートの2番目の作品紹介でも触れた「逃がし」の要素のためだと思います。 しかし、本人は絵の中の絵具のやり取りに没入したいのに、絵の外縁と展示の壁との繋がりだとか絵の外側を考えなければならない瞬間が途中途中でどうしても生まれてしまい、それがストレスになっていた様子です。 そこで今回は絵の外縁に段差をつけることで、張り出した中心エリアの外周を「逃がす」形にしてみたそう。その甲斐あって、今回は制作中絵の中に没頭しやすかったそうです。物質的には飛び出しているのですが、本人の感覚では「へこんでいる」のだそう。キャンバス自体が額縁の効果を果たしているのかもしれない、と個人的には解釈できました。   小久江さんの制作のスタイルはシンプルに、「絵具をやり取りしていて自分が心地よいこと」を大切にされているそう。 「自分が絵に求める感覚は、風を受けて張った凧の感覚に近い気がする。」 それを発見した小久江さんは、自分の絵に一度空を飛んでほしい、と考えているそうです。めっちゃ面白い。 実験的に作られた凧がちゃんと展示されていました。 空飛ぶ絵が実現された際には絶対に見てみたいです。   作品の視覚的美しさ、身体感覚的な柔らかさ、発想の面白さもあるとても充実した展示だと思いました。 小久江さんの個展『絵画の種子』は5月11日まで。 この機会に是非ご覧になってみてくださいね。   (清水悠子)

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