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9月 2018

作家リレーインタビュー第6弾は、福井伸実さんから紹介いただきました、藤川さきさんです。 藤川さんは2013年に多摩美術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業。国内の展覧会や海外のアートフェア等で作品を発表する他、イラストレーターとしても活動されています。 藤川さきウェブサイト   今回は、清澄白河のondo STAY&EXHIBITION(以下ondo)で開催されていた「未知のためのエスキース」展を見に行ってからのインタビューとなりました。 【展示風景】 そして、今回もアトリエにお邪魔させていただきました。 河口:はじめまして。藤川さんは、過去に多くの展示をされているので、そのステートメントやメディア露出した際の発言等目を通させていただきました。今日は、改めて藤川さんの言葉で作品についてお聞きしたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。 藤川:よろしくお願いします。   ―:まず、近年の制作のテーマについて教えてください。 藤川:テーマというよりは、作品制作に対する姿勢になりますが、いかに人と関わりながら自分の好きなことをやっていくか、ということを大切にしています。自分が出したものが人の目にどう映っているか。 例えこっちがタイトルやステートメントで方向づけしても、自分が考えていたことと全然違う意味で捉える人がいたり、解釈の仕方が違うじゃないですか。その時々で人の反応がみんな違うっていうのが結構面白くて、自分が今まで生きてきた中で新しいものを取り入れて変わってきた、というのと同じ状況が人に起きているのを見るのが楽しくて、そこからまた何かを得て、作品を作っていく、人の反応からまた新しい作品ができる。その循環を楽しんでいます。   ―:人の反応によって自分自身が変化させられる? 藤川:はい。私はもともとただ絵がすごく好きっていう理由だけで美術の道をスタートしました。描くことが好きで、それの意味付けを意外と考えてこなかったんです。大学3年時に村上隆さん主催のGEISAIに出展する機会をいただいたことが作家として自覚的に活動し始めた時期ですが、描いたものを展示できるのは嬉しいし、絵を描くのが好きだから、という理由だけで展示をやっていたこともあって、展示の内容とか決まってないし、自分ひとりのなかで完結できる内容を考えていました。世の中と関わる手段ではなく、ただ楽しかった。 でも、卒業してから、同じことを繰り返していていると、飽きちゃうんです。私の中の楽しさは描くことで頭の中が更新されていって、また新しいことを描きたくなるという状況になることで、それが理想的な環境だと思っています。そうすると、ひとりよがりなことを描いているのは、絵の楽しさとしても行き詰ってくる。 いつも中心にあるのは、楽しいかどうか。自分にとって、自分が更新されていく嬉しさがあるかどうか。その元から変わらない、「ものを作るのが好きであること」を中心にちょっとずつ広がっているのがここ最近です。   ―:今回の展示について、すみません、実は展示名を「未来のためのエスキース」だと勘違いしたまま作品を見ていたんです。それで帰りの電車でフライヤーを改めて眺めていたら、あれ、「未知のためのエスキース」だぞ、と。それで、藤川さんにとって未知ってなんなんだろう?と思って。未知は未知でしかないのかもしれませんが。 藤川:それは、未来でもあるといえばあるんですけど、更新されていくことがメインテーマです。 この展示がそもそも、ondoの方で一冊本を作ってくれることになっていたんです。その本を書くために今回80枚くらいドローイングを描いて、最終的にどんなものが見えてくるか、どんなものが作りたくなるか、それが未知だったんです。全部のドローイングを描いたうえで、最終的にできあがったのが、80号の作品です(展示風景写真2枚目)。最初の段階では、まったく何ができるか分かっていなくて、それがひとつ未知の対象だったんです。 1日1枚以上という決まりで強制的にドローイングを描いていたので、日々何が起きるか分からない、小さい出来事も大きい出来事も含めて世の中の変わっていく、いろんなパーツが集まって更新されていくことを展示全体を通して表現したかったんです。   ―:そうなんですね。あえての質問をさせていただきますが、「未知」ってありえるんでしょうか。例えば何か実験する人も先に仮定をしてからそれを検証していくじゃないですか。ほんとうの未知、何も分からないことに向かっていくことなんてできないんじゃないですか?もともと答えや道筋は持って制作にあたられていたのではないですか? 藤川:それはそうかもしれません。今を継続しながら前へ進んでいくこと。見たことのない方向に進んでいく。絵を描くための機会として、ドローイングを通して生まれでたパーツをどう解釈して最終的に絵として出すか。毎日つらくてもドローイングを描いているとほとんど無意識のようなものも生まれるんですよ。それらを一個に集約するときにどういう絵になるか。分からないけど見てみたいからやってみよう。そういう意味での未知でした。ある意味ギャラリー側も賭けの遊びにのってくれたんです。 最終的に出来上がった絵のタイトルが「教えてくれなくてもいいから生きさせて」でした。そのタイトルがある意味、当初未知として捉えていたことへの答えでした。 毎日、自分が世の中に関わること、何で人は落ち込んで、誰が人の「正しい」気分を壊すのか、生活ってカオスじゃないですか。そういった部分も含めて、生活を作っている強さみたいな、人は生きていて、日々更新されていって、という状況を一枚の絵に強さとして描きたいと思いました。   ―:藤川さんの作品のタイトルって、切実なものが多くあったりするけれど、作品自体は暗くはないじゃないですか。人物からも切実な感情を感じないですし。そこに関して意識されている部分はあるのですか? 藤川:人はパーツなので、パーツの仕事をしてもらいたいんです。人に限らず絵に登場するモチーフ全てですが。それが笑っていた方がいい場合は笑わせますが、人物の笑顔や、怒りの表情ってすごく強いんですよ。人が笑ってる絵になっちゃう。絵の中の登場者は皆、劇のひとつの役割に過ぎなくて、主題に沿って演じさせているんです。   ―:あぁ、「劇」という言葉は藤川さんの作品を見るのに非常に納得感があります。おもしろい。 ところで、話を、もう少しコンセプトの方に戻していくと、自分が「更新」されていく、という言葉を非常に強調されているように思います。外部と関わることで自分の概念が覆されていく、という循環の中で作品を制作されているということですが、外からの刺激としては何の影響が一番大きいのでしょうか? 藤川:ネットを使う世代なので、今しかない、これから廃れていくかもしれないような、それこそツイッターとかSNSが好きです。こぼれ出たような感情の強いもの、人の生活にもうちょっと迫ったような、心境、環境が及ぼしている変化を見るのが好きなんです。 twitterで100人をフォローしているとしたら、ここからみた100人の現代を見れているわけじゃないですか。それって積み重ねていくと、世界に近くなる。 人の色んな部分を見ることが好きで、私、あんまり言ったことないですが、ツイッターアカウント10個以上持ってるんですよ。言ってしまえば根暗な趣味なんですが、誰かの考えてる公式情報も大事にだけれども、そこに至るまで何が起因してそこに至っているのかをすごく調べたくなる。自分が変わるきっかけにもなるだろうなと思うと興味があってめちゃくちゃみます。   ―:へー、すごい。私は逆でツイッター全然使えないんですよね。自分の私的な痕跡を読まれるのも嫌いだし、だから人のも見たくないんです。ツイッターは情報量が多いというか、更新度が高いからリアルタイムで追いつけないですし。 藤川:私はリアルタイムを追うことが単純に好きなんです。ネット上にはおどろおどろしい感情がいっぱいあるじゃないですか。それがいい悪いではなくて、単純にウォッチすることが面白いです。見れば見るほど、凝縮された世界になってるから。絵を描くときも、様々な要素で散らばっている世界を一枚の絵に凝縮するので、要素が散らばっている状況を見るのが好きで制作のヒントになるんです。そういったものをヒントに世界を再構築して作品としてアウトプットし、人の反応を実験的に見る。人が関わる循環を自分の中で作れて納得できている状況の方が制作に対しても健康的になれるんです。   ―:インタビューの冒頭で、ひとりよがりな制作から人の反応を受けて人と関わりながら自身が更新されていく形へと変化した、という話がありましたが、具体的にその転機となるようなことはあったのですか? 藤川:ふたつあって、ひとつはd-laboミッドタウンというイベントスペースで行った砂絵パフォーマンスです。もうひとつは、作家としての転機でondoで行った展示ですね。 d-laboは大学卒業2年目くらいの時期に自分の作品について90分話す時間をいただいたのですが、そのうち30分を使って、お客さんの言葉に応えてその場で砂絵を作っていくパフォーマンスをしたんです。そうすると、当たり前ですが、確実に自分が作りたい、作ろうと思っていた方向は壊される。他人との関わりの中で自分が否が応でも変化されるっていう状況を初めて体験して、作品に対する考え方は変わりました。 ondoでの展示は、作家としての振舞い方、作家としての人格の形成に深く関わっていると感じています。初めて個展をやらせていただいたのが去年の夏で、今回の「未知のためのエスキース」展もそうですが、毎回展示の前にしっかりミーティングをするんです。展示を行うことの意味、今自分が最も大切に考えていることが明確に話せるようになりました。   ―:そうなんですね、ネット上に出ている記事や展示コンセプトから、制作は日常の生活からヒントを得ているという印象を受けましたが、アートに限らず影響を受けたクリエイターはいますか? 藤川:絵として目に美味しい作家としては、超メジャーですがエゴン・シーレ、それから小山登美夫ギャラリー所属の長井朋子さん、マルレーネ・デュマス、エイドリアン・ジーニーが好きです。 一方で、絵から遠ざかることが必要、本質的には絵の前にいることだけが絵を描いている時間ではないと考えていて、音楽を聴いたり、本を読んだり、博物館へ行く、いろんな情報に触れる時間も大切にしています。もちろん作品は描くことでしか生まれないんですが、そうやって全然関係ないことをしてるときに、頭の部分を育てていると考えると、実質絵を描いているというか、絵を描いてるよりも描いていると感じています。   ―:藤川さんは大変多作で、これまでの流れから日々制作していく中で新たに自分自身を更新しながら制作を続けていかれるのだろうと想像しますが、今後の展開について何か考えていらっしゃることはありますか。 藤川:絵は主体になると思います。まだやってないことがいっぱいありますから。ただ、絵を描きたいのではなく、作りたいものから逆算していくので、その表現手法は多様になっていくと思いますし、今も石、鏡、粘土、様々な素材で実験しています。映像が必要ならば、映像を扱うようになるのかもしれません。 ただ、言えるのは、否が応でも人は人の作った社会に住んでいますし、私は人の作っている世界に興味があるので、日々更新されていくものを追いながら、自分のなかでかみ砕いて、それを作品にしたりすることで、見た人がどう反応して、自分、それから見てくださった人自身がどう更新されていくか、そこを大事にしながら制作を続けていきたいと思います。   ―:お話しを伺っていて、ものすごく技術的な工夫をされているし、実際に作品を見ると絵のタッチが非常に面白くて、奥深いんですよね。ネットで最初に作品を見た時との印象の違いが大きく、驚きました。これから見られる方は、ぜひ現物を見ていただけたら、嬉しいです。  実は、記事にまとめるにあたって残念ながらお話の大部分を削ってしまいましたが、インタビュー自体は3時間近くも楽しくお話しさせていただきました。 本当にありがとうございました。

時間のかたち 見崎彰広 新作展 こんにちは。清水です。 今回は、一風変わった版画・鉛筆ドローイング作家の見崎彰広さんをご紹介したいと思います。   8月4日、日本橋の不忍画廊へ「時間のかたち 見崎彰広 新作展」を見に行ってきました。 見崎彰広さんは東京芸大の日本画専攻を卒業された後、リトグラフという手法の版画作品と、鉛筆によるドローイング作品とを並行して制作されています。 私が美術予備校、ふなばし美術学院の日本画科に所属していた頃、見崎さんは日本画科の学生講師をされていました。   他にあまり類を見ない独特の作風がとても面白いので、1人でも多くの方にぜひ見ていただきたい。 黒。はっきりとした黒が印象的かと思います。 基本的にモノトーンなので、人によっては地味だな、暗いな、と感じられるかもしれません。しかしその制作スタイルやスタンスがなんとも面白い。 私が今回の展示でまず感心して釘付けになってしまったのがこちらの作品。 何に惚れ惚れしてしまったのかというと…こちらの作品、なんと鉛筆のみで描かれているんです。 デジタルイラストレーションなんかではクリック1つで塗れてしまうような黒のベタ塗りですが、この漆黒の面を手作業で鉛筆でこのクオリティに仕上げている仕事の精度の高さ、ストイックさに思わず笑みがこぼれてしまいます。 絵の端のキレも素晴らしいです。さすがにここはマスキング(紙の地のまま綺麗に残したいところをテープや紙を貼って保護しておく処理)を行っているそう。 天使がモチーフのこちらの作品も鉛筆によるドローイング。どんな手つきで描かれているのか想像がつかない点描のようなホワッとしたタッチで、中央の天使が光っているように見えます。   こちらの一連の鉛筆ドローイングについて、黒い面の精度があまりに高いので「(黒いところの作業は)気が狂いそうですね」とお話ししたところ、見崎さんとしては中央のモチーフ部分に最も神経を使う、とのことでした。こうして画面の多くを色面で構成していると鑑賞者の見るべきところはモチーフ描写の部分だけになるからだそうです。なるほど。 黒い部分は鉛筆の動きを縦向きに統一することで、基本的に上からあたる光でタッチの筋が見えにくいように工夫されているそう。 惚れ惚れします、ホント。 展示の告知の際に見崎さんがこちらの『シュート』という作品を引用して「昔バスケ部だった方、ぜひ見にいらして下さい。私ひとりでディフェンスしております。」と書かれていたのが印象的で面白かったです。作品も魅力的ですが、見崎さん自身が落ち着いていてユーモラスで話していてとても面白い方です。 小学生頃から誰しもが慣れ親しむような、鉛筆という何ら特別ではない道具で表現をしていきたいと考えていらっしゃるそう。とあるテレビゲームでいうところの初期装備の武器、木の棒でずっと冒険を進めていくような感覚。そんなところに鉛筆表現の面白さを感じているそうです。 言ってしまえばただの鉛筆が、技術次第でここまでのクオリティの表現になる。面白いですね…。   ここまでご紹介した額装なしの木製パネルの作品は全て鉛筆ドローイングですが、ここからは版画作品のご紹介。記事の冒頭の方の写真のものも、額がある作品はリトグラフの版画作品です。 リトグラフについて簡単にご紹介します。 版画には凸版画、凹版画など使用する版の構造によっていくつか種類がありますが、リトグラフは「平版画」と呼ばれる版種です。木の板を削って残った出っ張りにインクをつける木版画のような凸版、銅板に傷をつけた凹みにインクをつめる銅版画のような凹版、ステンシルのように穴の開いた版の上から塗ったインクを下に落とすシルクスクリーンなどの孔版、とありますが、平版は版に立体的な手は加えず、簡単に言えば水と油が互いをはじき合う性質を利用した版画技法です。 元々は石板を用いたことがリトグラフという名前の語源となっています。現代ではアルミ板にクレヨンや油性ボールペンなどの油性の画材で絵を描き、色々加工を加えたあと版に水を塗ると、水がはじかれた油性の描画部分にだけローラーで油性インクを乗せることができ、それを紙に押し当てることでイメージを刷ることができます。他の版画と異なり、彫ったりする版画特有の技術を必要とせずに絵描きが絵を描いたそのままのタッチを版画にすることができます。 カラフルに多色のインクも使うことができるリトグラフですが、見崎さんは黒のみを使って鉛筆ドローイングと見た目の印象が近しい作品を制作されています。   私がご紹介したいのはこちらの雪景色の作品。 雪が降り積もる窓辺のイメージで、可愛らしい画面です。こちら、色んな角度からじっと観察してみると、黒く見えるインクの中に少しだけ種類の違いがあるのが見えました。 写真で伝わるでしょうか。右上の光が当たっている部分をよく見ると、外側の窓枠の黒は青っぽく光を反射し、窓の中の黒は照りの少ない赤っぽい?漆黒で、その2種類の黒に境目があることが分かります。 黒いインクを置く前に工夫を加えてあるそうです。物質の作品ならではの生で見た質感の深さ、そんな細かな工夫を発見できたことが嬉しかったり楽しかったり。   シンプルな白黒の画面だからこそ、その内容にはとてもこだわって丁寧に制作されているのが印象的です。シンプルだけれど一つ一つの作品に重みと充実感があります。 黒の中にこんなにもいろんな表情があるんですね…。愛着を感じられます。 ボローニャ国際絵本原画展に入選もされている見崎さんは詩とドローイングで構成した小さな本も制作・販売されていて、そちらもちょっと切ない雰囲気が魅力的です。 今後の活動もとても楽しみです。 (清水悠子)   ーーーーーーーーーー 見崎さんは現在、9月25日まで兵庫県のグループ展に参加されているそうです。お近くに行かれる方はぜひチェックしてみてくださいね。   G.araiの絵本原画展 「物語のかけら」 2018年9月20日(木)~9月25日(火) 11:00~18:00(最終日17:00) ギャラリーアライ www.gallery-arai.com/

熊谷市・熊谷市教育委員会協力のもと、10月27日(土)に熊谷市屋外彫刻おそうじ体験を開催します。 ちょっと敷居の高い芸術品、美術館だと絶対に触れてはいけません。でも、それで興味を持つってむずかしい。触りながら硬さ、大きさ、個体別のさび具合を確認する、作者の細やかな気遣いに気付く。彫刻作品は触ることで見るよりも多くのことを知ることができます。おそうじを通して、彫刻作品を身近に感じ、自分の住むまちの財産として捉えていっていただけるようになれば幸いです。 おそうじ体験のお申込みは、こちらを印刷のうえ、FAXでお送りいただくか、メールにてお申し込みください。 おそうじ後は星渓園に移動し、当日を振り返ります。希望者はお茶会体験もできます。  

6月のアートコラムでは、欧州美術財団(TEFAF)のレポートを引用しながら世界のアートマーケットについて概要を見た。その際に日本についての記述の少なさを述べたが、今回はTEFAFレポート同様バブル期についてであるが、日本について数ページに渡って興味深い記述されていたので、Art BaselとUBSによる「The Art Market 2018」を見てみる。アートマーケットレポートは各団体のウェブサイトから誰でもダウンロードすることができるので、読んでみると面白いかもしれない。TEFAFの方がアートについて詳細に、バーゼルの方がアートと経済を絡めて読みやすいアウトプットの仕方をしている印象である。 TEFAF Art Basel   さて、アートコレクターと言った時にみなさんはどういった人を想像するだろうか。巷には数千円から購入できるアートもあるわけであるが(そしてそれらが後に大きな価値を持つことも稀にある)、コレクターともなると、なんとなく、とんでもない桁の金額をアートを投入していそうである。彼らは何を目的に、どのようなアート作品を購入しているのだろうか。 Art Baselのレポートによると、 富裕層の35%はアートコレクターとして活動的であり、そのうち93%が500万未満のアートを最も頻繁に購入し、1%未満が1億円以上の作品を購入する。またコレクターのうち32%のみのコレクターが、購入したアートワークの価格が高騰することによるリターンを期待すると応え、86%のコレクターがコレクションの中から作品を売ったことがないと回答した とある。 富裕層の定義についてはレポートで明記されていないものの、近年のアートの価格高騰を見るに、投機目的の人が多いのだろうと想像していたが、リターンを期待する人が3割程度というのは、予想以上に低かった。数千万円以上の作品は投機目的に購入されることも多いと聞いたことがあるが、アートを所有すること、それ自体に価値を置く人が多いのだろう。そして大規模なコレクターであるほど、コレクションを多くの人に見てもらうために美術館に貸し出したり、自ら美術館を建設してコレクションを公開する。 そんなアートコレクターはどのようなアートを購入するのだろうか。過去の巨匠の作品の価格は安定して高価であるが、Art Baselのレポートによると、過去2年間、購入されたアート作品の85%がアメリカ出身の、もしくはアメリカ国内で活動するアーティストのもので、84%が生きているアーティストのものであった。 これと対照的であったのが、バブル期の日本である。レポート原文をそのまま引用すると、私自身があたかも日本を批判するようであるが、そうではない。現在国際的に日本がこういった評価をされてしまっていることは残念だが、これを事実と認識した上で今後どうしていくか、という点を考えていきたいのである。 ここからは原文(つたない訳は河口)をそのまま載せる。 1990年には、日本がアジア圏では最もアートを購入する国であり、同時にイギリス、アメリカを抜いて世界のアート輸入量の30%を占めるアート輸入最大国となった。この時点での中国(香港を含む)の輸入量は1%未満であった。しかし、これは相当に内向きな流れであった。というのも、当時の日本のアート輸出量は世界の0.1%に満たなかったからである。 1980年代の悪名高いアートマーケットバブルは、その後10年ほどに渡る印象派絵画を中心とした日本の強い購買によってさらに悪化した。 ・・・ 日本人の余剰資金は、ハイリスクな資金調達とともに、時には美術資産を使った違法な取引や慣行など、新規購入者の一部による不十分な知識によってもたらされた。その結果、アート価格は急激に上昇し、往々にして平凡な作品に莫大な額が払われた。 (当時の日本の一部の企業は、借り入れ、貸付、場合によってはマネーロンダリング、現金脱税の隠蔽に、評価が曖昧であるアートを使用していたとの報告がされている。) 後半の部分は、多くの日本企業が名画をオークションで競り落とし、バブル崩壊とともにそれらを手放したことが批判されたことは多くの人の知るところである。 日本人が印象派を非常に好むのは、今でも美術館の大規模巡回展示を見れば分かる話であるが、近年のアートコレクターが現存するアーティストを好んで購入することや、これらレポートを読んだうえで思い出すのは、MoMAの「我々は歴史に無関心であり、歴史は我々の活動の副産物であるという前提から始まっている」というMoMAが自らの果たすべき役割についての言葉である。   このように過去の出来事について散々に書かれている日本である。少々尻切れとんぼだが、これからのアート界における日本の立ち位置について、希望を込めて次回のアートコラムに書きたいと思う。

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