展示レポート

菅原玄奨、高橋直宏「The Metamorphosis」 レポート

先日、ギャラリーEUKARYOTE(http://eukaryote.jp/)へ行ってきた。先月行った展示に菅原玄奨さんの作品があって、グループ展だったため、1点しかなく気になったからだ。

The_Metamorphosis_DM
"Metamorphosis"とは英語で変質、変形を意味し、"The Metamorphosis"はフランツ・カフカの『変身』の英題である。展示を見ると、この作家はあの本好きかな、と考えたりするのだけれど、今回は展示名=小説名だったので、それにつられてしまった。というか考えざるをえない。

ギャラリーに置かれている文章では、『本展はフランツ・カフカの「変身」より、ある朝起きると虫に変身していた男の前の不条理から立脚する話を、眼前に質量をもって確かに存在する彫刻と私たちが対峙することに擬えてい』るとある。

さて、「ある朝起きたら虫になっていた」話はほとんどの人が聞いたことがあるのではないか。ところが、どんな話だったかとうまく思い出せず、久しぶりに『変身』を読み返してみると、アレ、こんな話だったか、と思った。幼い頃読んだ時は人が虫になってしまう衝撃が強かったが、実際のところ、虫か否かは表層的な問題なのだ。要は、主人公は朝起きたら、他者に言葉が通じず、外見もおぞましい、家族にとっては人目から隠しておかなければいけない対象となってしまった。

自室で虫となったまま引きこもっている時に、虫のごとく壁や天井を這いまわり、ふと我に返った時に、身も心も虫になっていたことに主人公は恐ろしさを覚える。死ぬ間際には主人公は家族との愛おしい時間を思い返し、一方、疲弊した家族は虫となってしまった身内を庇い続ける必要性を感じなくなってくる。足枷となっていたものが無くなることで未来を希望に満ちたものとして捉えるところで物語は終わる。虫は人として死に、家族は人を虫にした。

---

私達が何者であるかは、ひどく曖昧な問いだ。私達は周囲にどのように捉えられるかによって如何様にもに変貌しうるし、何者かと社会に捉えられるか、それだけが「確か」なことだ。

冒頭の話に戻すと、彫刻が存在することと私たちが質量的に存在することの「確かさ」は等しいはずだ。それでも、時折り、彫刻を前にすると自らの存在が霞むように感じる時がある。それは自我があることの、思考できるが故の弱さだ。言い換えれば彫刻が持つのは、自我がないことの確かさ、不変であるという確固たる強さかもしれない。そうして、その屈強であるはずの彫刻には、人間と同様の曖昧さが、自我とは違った形で作り手によって内包されていることに、私達は一種の安心感を覚えるのかもしれない。正確に言うならば、曖昧さはどこにもなく、鑑賞する者が勝手に読み取るものではあるけれど。

DSC_0891

菅原玄奨 左「stranger (portrait) vol.2」右「stranger (portrait) vol.1」展示風景



DSC_0885

髙橋直宏 「箱庭で遊ぶ」



そんなことを考えると面白い二人展である。共通項のある視点を持ちながら作品形態は全く逆だ。展示は2月3日まで。決して広くはないものの、3階立ての空間にはシンとした濃密な時間が流れている。

(河口)

-展示レポート